館長言行録

 あの事件を思い出した。

 会津鶴牙城天守博物館の宝物のうち小物が数点盗まれた。


 何物かが夜分忍び込み、恵日寺徳一の独鈷などを持ち出したのであった。


 当時の館長は、裕苦労の親族であった。


 館長はその後に責任を取って交代になったのだろうか、そうではなく続けていたように思い出されるのだが、館長はストレスはあったかわからないが、結構ご夫妻早死にで惜しまれた。

 たぶん、死ぬまで館長を務めたのだったかもしれない。


 というのは、犯人が窃盗品を同市に売ろうとして、入手の経緯がごまかしきれずに御用となった。その時には既にこの世の人ではなかった。


 事件の解決を見ずに逝去されたわけである。

 また思い出すと、裕苦労が家伝の仏像を堂扱うか相談し、天守に寄贈してもらいたいと言われた。


 その時既に窃盗事件は、数年も経っていたはずだ。


 誰も事件解決に尽力することが出来なかった。


 命を知事メル酔うなことではないはずだが、おもしろくないはずは無かったかと考え、もう少し、気を使って接した方が良かったと裕苦労は思いナスのである。
 
 そうか、石垣を登って侵入したのでしょうか、とぶしつけな質問を不用意に発した子尖った。
 無用に神経を坂根でした結果になったか、



 裕苦労は官軍は浄化に城下を占領し略奪をほしいままにして、財貨を運び去ったことpを銘記せねばならないのだった。

 その中には、蒲生うじ里が残していったものもあったわけだ。

 館長は、一層の努力を持って博物館活動と、観光案内に打ち込んでいたのである。*(日本)*